「春の花三題」

                                                 町田 雅之
ジンチョウゲ
 沈香と丁子は香料の代名詞のようなものである。ジンチョウゲ(沈丁華)というのは、間違いなくその香りの強さに由来する名前である。立春の頃、この花の群れ咲くあたりに足を踏み入れるのは、ちょっとした覚悟がいった。好みの問題かもしれないが、これでもかと香ってくるにしてはそれほど快いものではなかったからだ。
 その香りが苦にならなくなった思い出がある。大概の人生にはいくつかの恋と呼んでいい出会いがあるだろう。受験生と言われていた頃、いくらかは人目を忍ぶつもりもあったのか、朝焼けに照らされたわずかな時間をジンチョウゲの香りにつつまれて語り合ったことがある。終わらない恋があるはずもなく、今となっては何を話したかなど記憶にないし、恋そのものを思い出すこともないくせに、たまに触れるこの香りには、間違いなくこの情景が蘇る。

ハクモクレン
 一般に、平戸に住む人は平戸の景色を知らない。対岸の田平町から景色として平戸島を眺めるという人はきっと稀ではないか。高校生のころずいぶんお世話になった座禅道場の庭からは平戸港がよく見えた。修行というほどのものでもなかったのだろうが、道場の前にかけられた板を叩いて合図する係をまかされていたこともある。ある朝、合図のために庭に出て息を飲んだ。冬の空気は限りなく透明で、雲ひとつない夜空にまだ沈みきれない満月が平戸港とそのまわりの山や家並を照らしていた。座禅の途中のこと、一人で見るしかなかった風景のその透明な空気だけは、まだそれ以上のものに出会っていないような気がする。
 その道場のすぐ近くにハクモクレン(白木蓮)の巨木があり、春になるとびっしりと花をつける。日本人の多くは春特有の明暗を経験するのではないか。このハクモクレンの花を見ていたその頃は、身の程も知らずただ挫折の思いが強かったことが思い出され、ひそかに「無念の木蓮」などと呼んでいたりする。

ウメ
 梅の花が盛りである。梅といえば天満神社。わが家の近くの天満神社にも境内、参道にたくさんの梅の木が植えられている。
 実った梅は地区の子供会の収入になる。実をいただくだけでは申し訳なくて、わが家では子供たちが小学校を卒業する際に苗を植えるようにしている。植えるのはいいのだが、普段が植木などに興味がないものだから植えっぱなしにならざるを得ない。
 長女は3本をそれぞれ離れた場所に植えた。かなりたって見に行くと、1本は引き抜かれて枯れてしまっていた。ヒトかイヌの仕業かはわからない。残る2本は、意図したわけではなかったのだが、日当りのいい場所と、悪い場所、という組み合わせになってしまった。当然、日当りのいい方がよく伸びた。だが翌年、記憶にも新しい大渇水に枯れてしまった。目が届かなかったといえばそれまでだが、皮肉なものである。一方日当りの悪い方は、その後もぐずぐずと煮え切らない伸び方ではあったが、あの渇水に枯れることもなくいつしか花を見ることもできるようになった。花の咲く頃は自宅にいることのない長女が、自分の植えた梅のかろうじて残った1本に咲いた花を初めて見たのは、高校を卒業した春のことであった。日が当たらないのがそれほど悪いことでもないと思えるようになるのは、まだまだかもしれない。

 生月自然の会会報「えんぶ」35号(99年 月発行)に掲載予定

ホームへ 前ページへ 次のページへ
準備中
見出しへ