AGOKAZE's FOOTPRINTS

不定期に各種の印刷メディアに寄せた原稿を並べてみました。
内容は必ずしも掲載された通りではありません。

長崎を文化王国に 長崎県文化団体協議会会報 No.62
2005年9月

12xおらんだ

西日本新聞:あがんこがん I think
2004年
5月10日
慈之の平戸中学校卒業式に

2004年
3月17日

九州広告美術業組合連合会機関紙
2003年8月
日本都市計画家協会「都市計画キャラバン2002in平戸」報告書
2003年1月
郷土出版社刊「目で見る平戸・松浦・北松の100年」(地域写真集)
2002年8月
九州広告美術業組合連合会機関紙
2000年8月
平戸市史編纂委員会刊行「平戸市史研究3」
1998年3月
平戸市史編纂委員会刊行「平戸市史研究2」
1997年3月
西日本新聞:平戸市のプロジェクトについて。
1994年
8月26日

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長崎を文化王国に
 長崎県を文化王国に テレビで某県のえらい人が「当県をスポーツ王国に」と言っているのを眺めながら長崎県のことに思いを馳せていた。たとえば長崎県をスポーツ王国に(がんばれVファーレン)、観光王国に、造船、工業、農業、水産、福祉、ずーっといって、芸術・文化王国なんてどうなんだろう。
  あまり知られていないが「文化芸術振興基本法」というのが平成十三年度に施行された。経済大国と言われてきた日本国が「これから我が国は芸術大国を目指します」と言っているのかどうか、第一条を引用してみる。

 この法律は文化芸術が人間に多くの恵沢をもたらすものであることにかんがみ、文化芸術の振興に関し、基本理念を定め、並びに国及び地方公共団体の責務を明らかにするとともに、文化芸術の振興に関する施策の基本となる事項を定めることにより、文化芸術に関する活動を行う者の自主的な活動の促進を旨として、文化芸術の振興に関する施策の総合的な推進を図り、もって心豊かな国民生活及び活力ある社会の実現に寄与することを目的とする。(文化芸術振興基本法 第一条「目的」)

  そして、地方公共団体たとえば長崎県は、文化芸術の振興を推進する責任があり、国はそのための法政・財政の措置を講じる云々と続く。
  「振興」という文字から連想されるのがおよそ五十年前に施行された「離島振興法」。離島の多い長崎県に多くの恵沢をもたらしてくれたことは疑う余地はないが、心豊かで活力ある社会が実現したかは異論のあるところではないだろうか。各地で様々な文化活動を行う私たちは、この「振興」基本法の目指すものをたえず念頭においておかなければいけないのではないかと思っている。

  英語のgenerationには30年という意味もある。親から子へひとつの世代が入れ替わる時間という意味だろう。平戸市文化協会はまもなく設立30周年を迎える。まさしく私の親の世代が設立し、私は五年前より代表を仰せつかることとなった。これまでの間、地域における文化協会の役割は大きく変化してきたように感じている。

  もともと文化という言葉は相当に包括的なものではあるが、平戸の場合は更に多くの歴史資産が文化協会の守備範囲となる。結果 、音楽を原点に参加した私も歴史と無縁ではいられない。歴史を活かしたまちづくり事業、平戸オランダ商館の復元、日蘭交流400周年(「12xおらんだ」)など歴史に根ざした多くの事業にこの文化協会を通 じて関わらせていただいている。
  近年では、藤浦洸、黒崎義介といった、昭和のある時代、全国の人々を惹きつけた平戸出身の芸術家の顕彰事業も行った。また、大航海時代に遡れば、平戸を世界史に登場させる役割を果 たした人物も少なくない。江戸幕府の重臣でもあり、平戸オランダ商館設置に大きな役割を果 たしたウィリアム・アダムス(三浦按針)については、近年ようやくオランダとイギリスの外交担当者の臨席をいただいての記念事業が定着してきた。一方では台湾をオランダの植民地から解放した鄭成功について、その生誕地の方々を中心に、毎年台湾や中国から多くの参列者を迎えての生誕祭が行われている。
  平戸オランダ商館復元の動きが具体化するにつれ、城下町としての町並みを見直そうという動きも始まった。平戸の文化をまちづくりに生かす、という意図のもと、いくつかの出版事業も行ってきた。これはこの10年ほどの平戸市史編纂事業へとつながっている。

  こういった新しい動きを採り入れながらもこの30年間ずっと開催を続けてきたのが、平戸市文化祭である。現在では「平戸市文化まつり」と名称を変え、平戸市美術展とも連携しながら「舞台発表」「生花展示」「茶道呈茶」など、会員中心の包括的な活動発表の場として、会員自らによって運営されている。素人芸が圧倒的に多い中で、入場を無料としないのも特徴のひとつかもしれない。財源的というより、会員の参加意識とコスト意識、ひいてはこの費用負担を参観者にどう還元すべきかという観点で、自らの芸を高め、未知の喜びと出会うきっかけにして欲しいという思いからである。文化では食えないと言われて久しいが、私たち文化協会のリーダーがそれに納得していてはいけないと思う。これは文化を経済へと転換していく小さなひとつのチャレンジでもある。
  平戸市には現在、平戸神楽と平戸ジャンガラという国指定の重要無形民俗文化財がふたつあり、当然私たちの会員でもある。指定の形態を問わないのであれば、もっと多くの伝統芸能・伝統行事が存在する。今、地方のこういった伝統芸能・伝統行事の保存には、多くの困難を伴うようになってきている。私たちの暮らしぶりの変化が大きな理由ではあるが、こういった芸能・行事に携わる人々の誇りや愛着は未だ極めて強いものがある。この思いを次の世代につなげるための、単に財政的なだけではない確かな手だても必要だ。古来、神様に芸を奉納する人を芸能人と称していたという。ここからまた新たな芸能人が誕生し、やがては文化王国長崎県が実現することを願ってやまない。


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「12xおらんだ」に期待するもの

 17世紀の初め平戸にオランダ商館があって、長崎出島に移転されるまでの33年間、出島時代とは比較にならない規模の貿易と、人々の自由な交流があった。今、平戸市では当時の商館の建物群の復元と歴史に根ざした国際交流の試みが進められている。
 私は音楽、特にフルートを吹くことが大好きで、今では仕事の絡みもあってまちづくりと言われるさまざまな活動に関与しているが、一番根っこのところにあるのは、自分の暮らしているこの町で音楽が楽しめたらいいという気持である。  日蘭交流400周年という記念の年を間近に控えたあるとき、オランダ人フルーティスト、ウィル・オッフェルマンズと出会い、歴史的にも関わりが深く、自然豊かな平戸に、現代オランダで活躍する芸術家たちを滞在させる異文化交流事業の提案があった。専門分野での活動やワークショップ、地元の人々との日常の交流のみならず、書道や日舞、邦楽などの日本の伝統文化も集中的に学び、その成果 もあわせて公開する、という歴史的背景に根ざした「アーティスト・イン・レジデンス」である。
 美術・音楽・舞踊など、さまざまな分野で活躍するオランダ人が西暦2000年に12名、その後も毎年4名ずつの参加で、パートナーを同伴するケースも含めれば50人近いオランダ人たちが平戸での暮らしを体験したことになる。平戸港に「門」の文字をかたどった造形物が建ち、人のお尻の形にくぼんだ石のベンチがすわった他には、今すぐ目に見えて何かが変わるという事業ではないが、商館が出島に移されてからの数百年の空白を思えば「12xおらんだ」という名称に込められた「x」への期待は大きい。
 私にとって、たとえば東京を本拠とする音楽家と1ヶ月間行動をともにするチャンスはまずない。しかしこのプロジェクトではヨーロッパで活躍する音楽家たちと共演するチャンスに何度も恵まれる。草野球の選手がプロ野球の選手と一緒に試合をするようなものだろうか。
 日々一見なんの脈絡もない様々な社会活動と、ひとつ間違えば「美しいまちづくり」などブチこわしかねない仕事に携わりながら、自分の中で収束している思いがある。芸術文化の息づく町を創りたい、そしてふるさとで暮らす次の世代に残したい。
(www.12xholland.nl)


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謝辞

 桜のつぼみがほころびを見せようとしています。このよき日そしてまた新築のこの体育館におきまして、このように盛大かつ厳粛な卒業式を行っていただきましたことに対し、128名の生徒の保護者を代表して、心よりお礼を申し上げます。
 多くの先輩方もいらっしゃる中、不肖私に保護者代表という大役がまわってまいりました。7年前に、次女の入学式で同じようにご挨拶をさせていただいたことをあらためて感慨深く思い起こしております。また、取り壊された前の体育館の新築最初に私自身の入学式があったことも、なにか感慨を覚えずにはいられません。
  私にとっても母校でありますこの平戸中学校に長女が入学したのが平成4年。当時も学校を現場とする、あるいは児童や生徒が当事者となる様々な社会の課題が話題となっておりました。この中学校に関してもそういった不安な話題を耳にしなかったわけではありません。
  社会ではここ数年、子供をめぐる事件や犯罪が増加の一途をたどっております。ときに自らの手で我が子を死に至らしめる親があり、子供が被害者となるだけではなく、中学生が加害者となる凶悪な事件も発生しました。 それを思うにつけ、こういった事件や問題のためにひどく心を痛めることもなく卒業を迎えることができましたことは、文字通 り有り難いことであるとの思いを強く致しております。その影には多くの先生方と保護者の骨身を削るご努力があったことを思い、心からの感謝を申し上げさせていただきます。本当にありがとうございました。
  卒業生たちにとって、創造・敬愛・錬磨の校訓のもと、平戸中学校で学んだこと、築き培ってきたものは、これから大人となり、社会の一員として活躍するときの大きな力となるに違いありません。「混迷」と言われる現代社会にあって、自分を見失わず、社会の進むべき方向を見出し、示すひとりとなってほしいと願わずにいられません。そのためにも、まだまだ親としてのあるべき姿を自身に問い続ける覚悟を新たに致しております。
  最後に、本日こうしてご参列いただいております先生方を始め、在校生やその保護者のみなさまが、母校の学びの場としての益々の発展のため、これからもより多くの知恵を出し、ご努力を続けていただきますようお願いを申し上げ、そしてまたその実現のためには今後もでき得る限りの助力をお約束し、意を尽くしませんが、感謝のことばと致します。
平成16年3月17日 平戸市立平戸中学校卒業生の保護者を代表し


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九広美2003年夏号に

 このたび、長崎県組合より九広連組織振興委員長に選任されました町田でございます。日広連では定款の変更など、次々に改革が進められており、九広連としても現在の構成では最後の委員長となるかと思われますが、任期いっぱいつとめさせていただきます。
 本来当委員会の業務は「組織強化・拡充」と定義されており、所属員数の増加と所属員間の連携強化がその趣旨であると理解しています。
 九広連に於いては、平成10年度当初の所属員数503に対して、平成14年度末が429。内容は単純な減少ではなく、また必ずしも廃業ではないのですが、年平均15ほどの減となってることは事実です。今の業界を見ると、装置化や情報化の流れの中にあって、これまでの足場を失い、これからの足場をどう組み立てようかと模索しているときのように感じられてなりません。
 日広連では「その原因追求と振興対策を緊急かつ迅速に進める。」(平成15年度事業計画)とうたっており、アンケートなどの具体的な作業に着手することになるかと思われます。業界や組織のあり方について、皆様の忌憚のないご意見をお聞かせ下さい。
 本来こういった事業は、数値目標を掲げその達成のための具体的な方策を検討・実施していくべきものですが、私自身の不慣れに加え、現在はあまりにも不透明ではないかと思われます。このような状況にあって、まずは組織化が軌道に乗り始めた青年部に代表される業界の次の世代の足場づくりが私たちの大きな役割と考えます。さいわいに日広連でも「良好な景観形成」を定款にうたうなどして、このことに業界固有の役割として積極的にかかわっていくことを明確にしました。 あとは私たち自身がこのことを日々の業務の中でどう具体化していくかにかかっているのではないでしょうか?

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出会いと刺激のWS体験

 私には大きく3つの立場があったように思う。
  まず最初に、この町並みをふだんの景色として暮らす生活者としての自分。ふだん見慣れている風景は、人の営みによって一見わずかずつ、しかし時には劇的に変化をする。結果 失われるものは少なくない。が、そこにはこれまで特に大きな関心を寄せることなく受け入れてきた人々が暮らしており、その一人としての自分がいる。
 二つ目は、文化協会の会長に代表される、まちづくり活動家としての一面 。保存すべきものをカバーしつつ、地域文化を創造するという期待を感じながら。数年前、当地に埋もれる歴史資産をまちづくりに生かそうと「歴史を生かしたまちづくり」計画の策定に携わった。そこからやがて平戸オランダ商館復元というひとつの大きな事業にチャレンジすることになり、たとえば「12xおらんだ」のように、多くの市民を巻き込むまちづくりにチャレンジしている自分がいる。
 三つ目が、常々都市景観の阻害要因といわれている屋外広告、それを生業とする看板屋の立場である。観光地にあっては阻害要因と言われつつも、ある場面 では情報不足を指摘される。その狭間で30年間糊口をしのいできた。これまでもこういった活動に参加するチャンスは多く、しかし看板屋でしか収入を得られない立場で参加するには、どうせ規制されるものであれば、規制する側に片足でも置いておきたい、という打算もなくはなかった。今は、規制という概念から離れた制度づくりにチャレンジしつつあるところである。我が業界は「景観に命吹き込むいいサイン」を2002年の標語としている。
  日頃から二つや三つの身体が欲しかったりするのだが、前記の「12xおらんだ」が始まるとさらにもう一つの身体が欲しくなる。そんな中での「まちなみ探検隊」参加であった。時間だけでない自分の努力不足から、関わる事業が不完全燃焼に終わることも多く、そんな自分をはげましてくれる人との出会いに期待しての参加であった。事業が重複してしまい、10月のワークショップの参加がかなわず、ナショナルトラストについて直接触れることができなかったのは残念だった。しかし数度のワークショップによる出会いと、荒削りながら、まちづくりのいろんな手法についてのいい刺激を得た。
  当事者となる場面も少なくなくて、いいこともあったであろう反面、結果 をゆがめることにならなかっただろうかという危惧もある。お世話いただいた方々のおかげで、なんとか形あるものに仕上がりはしたものの、個人的にはここでもやはり消化不良があったのではないかというのが正直な気持ちである。ただ多くの行政関係者の参加があったことは、今後に向けての大きく明るい希望である。 ※「12xおらんだ」=現代オランダのアーティストや専門家を平戸市に招待し、1ヶ月間の滞在中に市民と交流しながらそれぞれの分野での活動と、日本文化を学ぶ文化交流プロジェクト(www.12xholland.nl) Jan/2003

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懐かしい風景を訪ねて-------

 島には時計がふたつあった。普通の時計の単調なリズムの上に渡海船の時刻表が固有のアクセントを添え、島の人々の暮らしが織りなされていた。 多くの人々が働く炭坑やその周辺でも、独特のリズムが存在したであろう。春の花見、夏の海水浴、秋の祭りなど地域全体が年間を通 じて固有のリズムを共有し、その時どきのエネルギーは、より広い地域を巻き込んで人の流れをなしていた。
  エネルギーや食糧をとりまく産業構造の変化は、過疎化という言葉に代表される人口の減少もさることながら、人の移動手段も大きく変えていった。橋もかかり、今やマイカーはあたりまえ。港は埋め立てられ、海水浴場であったところに工場が建ち、田園地帯に量 販店や娯楽施設が建つ一方で、ひっそりとしぼんでゆく商店街。映画館はとっくの昔にテレビにとって代わられ、さらに新しいメディアが人と人とを結びつけるようになった。 子どもたちの数も減り、学校もまたその通学範囲を変えることで、共に遊ぶ子どもたちの地域はますます広がっていくことだろう。
  石炭を産出していたこの地域に輸入炭による火力発電所が作られ。輸入天然ガスの備蓄基地と、さほど遠くない場所には原子力発電所が建つ。 漁師達にとっても山や空を見る意味も大きく変わってきているであろう。
  風力発電の巨大な風車が回転する様ももはや珍しくはなくなった。 点在するコンビニエンスストアとパチンコ店、消費者金融の看板、林立気味の携帯電話のアンテナとともにこの風景もいつかは懐かしいと語られるようになるのだろうか。

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「12Xおらんだ」 九広美2000年夏号に
 大分県臼杵市付近にオランダ東インド会社の帆船デ・リーフデ(愛情)号が漂着してちょうど四百周年を迎える西暦二千年、平戸・出島という長いオランダとの交流の歴史を持つ長崎県内各地で「ながさき阿蘭陀年」のいろんな行事が開催されている。オランダとの交流に代表される長崎県独自の歴史や文化を再認識し、産業の活性化につなげようというこの十五か月はまた、オランダに代表される諸外国との新しい交流をひらくきっかけとなる期待が込められている。
 なかでも平戸市は出島以前にオランダとの貿易を盛んに 行っていた場所でもあり、鎖国もそれほどきびしくなかった頃、オランダに限らずあらゆる国の人々が自由に貿易を行っていた歴史を持っている。そんな自由な交流の痕跡を、オランダ人フルーティスト、ウィル・オッフェルマンズに紹介するチャンスがあった。彼は帰国後、往時のオランダ人と平戸の人々との交流を再現するかのようなプロジェクトの提案を送ってきた。音楽、美術、歴史、言語、自然、食品などのジャンルで活躍する現代のオランダの芸術家、職人、専門家十二名に一ヵ月間平戸に滞在してもらい、それぞれの分野での活動と、幅広い市民との交流をすすめるというこの異文化融合プロジェクトは、「12Xおらんだ」と名付けられ、約三年にわたるまさしく手探り状態の準備を経てこの七月にようやくスタートした。
 「12Xおらんだ」の「X(エックス)」とは、12「人(回)」が「クロス(交差=交流)」するという意味を持ち、そこから生まれる新しい交流は「未知」の可能性を秘めており、「ながさき阿蘭陀年」の多くのイベントの中でも、ひと味違った事業として注目を集めている。
 1999年秋、オランダ国内での参加者募集が始まると、これまで殆ど知られることのなかた「ヒラド」という町について、どんなところだという問い合わせ相次いだ。150名にのぼる応募者から提案された活動、交流のプランなどを勘案して、ようやく12名の参加者決められたのは2000年も始まって1ヶ月も過ぎたころだった。
 すでに7月には木工彫刻、肖像画、そして方言・怪談の研究者と3名が滞在・活動中である。8月には器楽演奏家、歌手、壁画・色彩 絵画家。9月にはパン職人、野鳥研究家、写真家。10月は絵本作家と器楽演奏家の滞在が予定されている。彼等はあるときは世界的にも有名なアーティストであったりするが、ともかくは一ヶ月間、無報酬で平戸での活動を行うことになる。九州の一地方に、国を代表するほどの芸術家たちがこれだけ滞在するというのはめったにないことだろう。普段、ついつい実務的なことに追われてしまっている身には、こういったアーティストとのふれあいが、とても貴重な経験である。
 期間中の彼等の生活や活動を支援し交流を深めていくため、いろんな人々の協力が必要であることは言うまでもなく、すでに我が業界の関係では佐世保市の霜田塗料産業のご尽力により、ターナー色彩 株式会社から数名の画家の活動に関して全面的なご支援をいただいているところである。紙面 を借りて厚くお礼を申し上げたい。

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海外交流館、その後
 前回「市史研究第2号」では「集客力」という観点から観光地を家庭にたとえてみた。今回は商品を売る「競争力」にたとえてみたい。購買嗜好の変化までを考慮する能力も字数のゆとりもないので、できるだけ単純にモノを売ることにたとえることにする。
 売るためには、商品があることが大前提であるが、その商品についての知識も必要である。そのモノの原料から製法に至る、一通 りの知識を有し、ある程度客観的にその特徴を知っておかねば、お客様へ売ることはおろか知っていただくことさえ難しい。その上さらに、その商品に対する愛着や誇りが、お客様への説得力となるのではないだろうか。
 今、平戸市を訪れる観光客は(控えめな言い方だが)減少の傾向にある。歴史を売る観光地に暮す人々が、自らの地域の歴史を知らないということの当然の結果 だとは言いすぎであろうか。今、私たちは地域の歴史を知ることの必要性を再認識しなければいけない。未来はその延長線上にあるはずである。それを進めるのが「歴史を生かした町づくり-博物館都市構想」であり、「海外交流館」をその拠点として位 置付けていることは、前回の通りである。
 その「海外交流館」の機能を少し具体的に考えてみたい。
 まず、歴史を知る場としての平戸市の展示施設を振り返ってみると、現在平戸市には松浦史料博物館、平戸城を始めとして少なくとも5つ以上の歴史に関する展示施設がある。これは、資料の数や地域の規模を考慮すれば十分な空間量 であろうし、将来平戸オランダ商館が復元されれば、その倉庫群でも何らかの展示を行うことになるのは間違いない。しかも、それぞれの展示の現状は、ここ数年にして一部にようやく更新の動きを見せてはいるものの、まだ十分とはいえない点がある。「海外交流館」はそれ自身の展示が、そういう既存の展示施設と競合することを避けながらも、既存のそれぞれの展示施設の特徴を生かし、補完・連携をはかり、地域として総合的に、より高度でわかりやすい展示を実現していく機能がまず求められている。
 また「海外交流館」自身の展示の方法については、上記の理由もあり、単純にモノを展示する以上に、近年のメディアや技術の大きな変革によって膨大な選択肢が準備されているメリットを十分に生かすことができる。具体的な選択の段階にさしかかりつつあるが、わかりやすさと共に展示の更新が可能(容易)であるかどうか、という点が選択の重要な要素になると考えている。その名称からうかがえるとおり、本来、展示すべきものは、過去の歴史を踏まえた現在と将来の「海外交流」である。
 さらに展示の方法以上に、展示すべき情報の更新機能は重要である。従来の展示施設の中には、展示の仕掛けのみにとらわれ、情報の更新への配慮をいた結果 として展示の陳腐化と客離れをまねいている施設があることを胆に銘じておきたい。平戸市にそれほどの財政的余裕があるはずもない が、その轍を踏まないためにもあえて、充実した学芸部門と、それに直結する研究機関が不可欠であることを明記しておく。
 「海外交流館」を平戸市が運営する以上、その研究も平戸市が主体となる。一般 的に「研究」などは、一地方自治体の能力のなかなかに及ぶところではないと考えられがちであるが、限られた特定の分野に集中してその能力を高めて行くことは可能なはずである。もともと中〜近世の海外交流史研究における平戸の地位 は潜在的にもきわめて高く、平戸がこれまでに培った多くの研究者との協力・信頼関係を生かせば、この分野での研究と情報発信について、すくなくともアジアにおける最高レベルを目指すことは不可能ではないはずである。
 もうすこし具体的にいくつか「海外交流館」のあり様を書いてみる。
 基本的に一過性の観光客のみを対象とする施設ではないが、駐車場を含むある程度の規模な施設と考えれば、現状では平戸港周辺にその用地を求めることは困難のようである。オランダ商館の復元計画は、残念ながら建設主体である長崎県の予算執行とスケジュールが合いそうにないし、復元後の「活用」を考える拠点としても「海外交流館」は早期に機能を発揮して欲しいものである。また展示の現状を別 の面から見ると、蘭英国に比べ、そのつながりのあまりの深さの故か、中国・朝鮮関係の展示がきわめて希薄であることを指摘しなければならず、この展示は海外交流館として補完を要求される分野となるであろう。そういう意味で、いみじくも中国とゆかりの深い千里ヶ浜のすぐそばに、用地が無償で提供されようとしていることは、復元計画の進むオランダ商館との良好な補完関係を予期させるに十分である。
 研究部門の在り方について、情報の更新という面を強調したが、なによりその情報には説得力がなければいけない。平戸が発信する情報であれば、信頼するに足る、といわれるようでなければならないだろう。そしてそれを実現させるに十分な、平戸をライフワークとし、斯界の最高を究めた方々との人脈も、着々と築かれている。それは地域内の展示施設の連携のみならず、国内外の諸大学、研究機関、太宰府に計画中の国立博物館などとの連携も視野にあるということである。そしてまたこういった研究の成果 が日常に市民の暮らしや経済活動にフィードバックされる仕掛けも必要である。
 前回も書いたように海外交流館の建設は、「歴史を生かした町づくり」の実現を目的とした、ひとつの節目にすぎない。ただその運営主体となる平戸市にはいまだに「歴史を生かした町づくり」を本格的に推進する体制が出来上がっていない。建設は議論されながら、その運営のバックボーンとなる歴史を生かした町づくり-博物館都市構想」がまだ認知されてもいないということは、一つ間違うと前記のすべての記述が覆えされる危険をはらんでいるという点で、今後における最大の課題である。 (1998年3月予定)

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「歴史を生かした町づくり」と海外交流館 市史研究2
 社会が成熟するにつれ、地域振興にもこれまでとは違う考え方や方法が問われてきている。その新しい考え方を、平戸市という歴史的にユニークな素材を多く持つ地域としてまとめたものが平成五年度の「歴史を生かした町づくり」(博物館都市構想)である。その中で、私たち自身がこの地に刻まれた独自の歴史をよく知ることによって、この地に住む誇りとよろこびが増幅され、結果 として産業の付加価値を高めるというところまでを意図した方法論が展開されている。  私たちが品物を購入するときの判断の拠り所がいくつか有る。「機能」「品質」「価格」などがそれである。しかし、冒頭に書いた「成熟化した社会」にあってはそれらの差は極めてわずかでしかない。結果 として買う、買わない、あるいはどちらを買うか、という判断の拠り所は、その製品を作った人々への嗜好や信頼によるのではないだろうかと予測した。いわゆる「ブランドイメージ」である。  また一方、全国にリゾートやテーマパークと称する空間や、いわゆる観光地がたくさんある。平戸市もその中のひとつとして客数の減少という事態に直面 している。観光地としての「集客力」の差を決定づけるものは何なのだろうか。かつてのように、有名であったり珍しいだけでは人が集まらなくなっているのは確かである。  地域としての「集客力」を考えるとなると、なかなか主体がつかみにくいので、これを普通 の家庭にたとえてみよう。たえずいろんな人が訪れる家庭というのは、どんな家庭なのだろうか。他にはないその家庭だけの独特の雰囲気や家族の暮らし方が、人にまた訪れてみたいと思わせ、その期待に背かないもてなしと居心地のよさを与えているのではないだろうか。その背景には、家族の誰もが、自分の家や家族に対して何らかの愛着や誇りを抱いていることが予想される。仮に、どんなに料理のうまい母親や器量 の良い娘が居たところで、他の家族が気むずかしかったりしたのでは、なかなかに人は心なごまない。しかし、一方ではこだわりの人の生き方が他にはない感動を与えることだってあり得る。このことを私たちの地域に当てはめてみれば「集客力」の正体も見えてくるのではないだろうか。
 私たちの地域が私たちにとって、「私の家に遊びにいらっしゃい」と言える状態であるかどうかを考えてみたい。「行ったらなにがあるの」とたずねられたときのきちんとした答えがどれほど用意されているだろう。
 私たちは私たちの今住んでいる場所について、どれほどの愛着や誇りを持っているのだろうか。そして、それ以前に、どれほどの知識を持っているのだろうか。
 現在、平戸市史の編纂の作業が進んでいる。それは、どれほど沢山の人々が長い時間をかけて、現在の私たちの住むこの地域を作ってきたのかを明らかにする作業でもある。このようにして得られた事実を知ることで、私たちはこのふるさとへの愛情や誇りを一層強くすることができると信じているし、そのことが現在や将来を切り開く大きな糧となるとも思っている。そして、私たち自身が今住んでいるこの地を素晴らしい所だと感じたとき、それ以外の場所に住む人にとっての大きな「集客力」となるはずなのだ。
 ただ「平戸市史」の完成によって、観光地平戸の集客力が高まる、というのは短絡以外のなにものでもないだろう。その延長にある、ふるさとや市史を学び、それを現代に生かそうとすることが、私たちにとって喜びを伴うものでなければいけないとも考える。そういう意味で、私たちの歴史が私たちの心の中にいきいきと存在する暮らしぶりの実現を、「歴史を生かした町づくり」では提案した。もちろんそのためには、多くの人の理解といろんな意味でのリーダーシップをとれる専門家集団が必要であり、一刻も早くそのことに取り組むべきであるとも書いた。  前記の提案とほぼ時期を同じくして、長崎県文化創造委員会が長崎県独自の文化情報を創出するために、海外交流の歴史を深く研究し、広く展示する施設の設置を長崎県に対して提案した。そしてその中に、この平戸市には多くの歴史資産があることも指摘されていた。これが私にとっての「海外交流館」とのなれそめである。この施設の設置は「歴史を生かした町づくり」の実現の大きな牽引力になりうると判断し、文化創造委員会の本意である「長崎県独自の文化遺産」の発掘(研究)と発信(展示)を、資産の多く眠るこの平戸の地で、と長崎県への最初の陳情を行った。
 その後の用地の提供を始めとする関係各位の多大のご努力により、県からは長崎県による建設、平戸市による運営という方針が示されているところである。
 これまでの多くの公共施設の場合、その建設終了が事業の完成とされていたが、この「海外交流館」の設置は「歴史を生かした町づくり」構想にとってはひとつの節目にしか過ぎず、最終的にこの施設や地域から長崎県独自の文化や情報を世界に向けて発信していくことを意図している以上、その発信すべき情報を生み出す能力が、建築物よりは重要だという認識を、少しでも多くの人に持っていただきたいと思っている。
 その結果として、数多く埋もれる歴史資産の研究成果が、次々に更新され、生き生きとした情報としてわかりやすく展示・発信される「海外交流館」が実現するのではないだろうか。
 繰り返し訪れていただくためには、そのたびの感動がなければいけないと思う。そのためにも、新しい感動を生み出す仕組みは重要である。でなければ、その施設も地域もやがては興味を持たれなくなってしまうであろうことは、今の平戸市の観光客数の変化を見れば明らかである。
 また、「集客力」のみならず、歴史に裏付けられたブランドイメージは、多くの「産物」の市場競争力を高めることになるだろう。
 平戸で生産された商品が好んで流通されることと、その産地である平戸に多くの人が繰り返し訪れることとは、産業として密接な関係を持つ。それに独自の競争力を与えるのが、私たちの地域の持つ「歴史」である。その「歴史」を深く掘り下げ、次の世代にまで広く知らせる仕組みを実現させることが、私たちの目下の課題である。
 そして「海外交流館」として最も懸念すべきことは、展示更新の仕組みを持たない施設が自治体の財政を圧迫し、結果 として住民福祉の機会までも奪うようになることである。 (1997年3月)

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平戸市「歴史を生かした町づくり」  ビジョン策定報告に添えて
(同ビジョン策定委員・(有)町田美装工芸社代表取締役)
 今、地球上におよそ五十六億の人類が生存しているが、平戸市民を名乗れるのは3万人足らずしかいない。そう考えると過疎だと卑屈になる必要もなくなる。地域の豊かさを測るものさしはいろいろあるし、人口というのはそんな数字のひとつにすぎない。人からうらやましがられる暮らしぶりというのは意外に自分では気がつかないものだ。今、私たちは、ともすれば自分のふるさとのことを、よく知らないがゆえに過小に評価していることが多い。所得水準が平均的に低いことは知っていても、職・住の近い、庭付きどころか庭の親玉 −国立公園の真っ只中に、少なくとも自動車よりはコストのかからない駐車場付きの家で暮らすことがどれほど幸福なことであるかにはあまり関心がない様に思える。
 平成五年度、平戸市は「歴史を生かした町づくり」のための基礎調査とビジョン策定を行ない、私たち委員は博物館都市構想を提案した。「歴史を生かした町づくり」というのは人々の心に歴史がいきづいていることを目指す町づくりのことである。「博物館都市構想」というのは町の中に博物館を沢山建てることではない。ここでいう博物館とは、調査・収集に始まり、系統的に整理し、わかりやすく展示・公開といった情報発信をする機能のことである。たんなる展示ではなく五感に訴える所までを目指している。カッコ良く言うと、そこにくれば歴史の主人公になれるテーマパークである。たとえて言えば、時間を超えて人の心を打つ物語りと共に、世界史の中で平戸がステージであったある時代の空間を再現し、来訪者は住民と共にその登場人物となって歴史を仮想体験する、と言った所だろうか。当時の人々の暮らしぶりを探ることで現代が見えてくるし、そのことが私たちにとってより豊かな未来を創り出すヒントにもなり得るはずである。
 特に十六世紀から十七世紀にかけての平戸は、多くの先進的日本人にとってのあこがれの地ではなかったか。日本と世界をつなぐ窓口としていろんな物と技術・情報が平戸を介して行き来していたであろうし、アジアやヨーロッパからの多くの外国人が普通 に平戸の町民と共に暮らす、さながら一年中が万国博覧会の様ではなかったろうかと想像する。
 残念ながらその頃の記録や足跡は四百年近い時間に流され、鎖国という大波にのまれて、現在私たちの目にとまるものはきわめてわずかでしかない。そして、わずかとはいえ残された史跡の多くは、皮肉にもこの町が、発展や開発とはあまり縁がなかった結果 でもある。それでも、この三十年ほどで失われていったものもけっして少なくない。一方、四百年近い時間のベールを一つ一つ剥いで行く作業を楽しみながらやってくれる集団も出来つつある。
 町はそこに住む人が望むように変わっていく。一人一人に異論はあるだろうが、マクロではそうなってきた。一人の百歩より百人の一歩とはいうけれど、バラバラにいろんな所を向いて歩くのでなく、一見好き勝手に歩んでいるようでいて、その実、他には真似の出来ないしたたかに仕掛けられた豊かさに近付いている、そんなまちづくりが出来たらいい。それには、私たち自身が自らの歴史を良く知る仕掛が不可欠である。砂浜に散らばる美しい貝殻をみんなで無心に拾い集めるうちに、気が付くとその足跡がナスカの絵のように一つのメッセージとなっている、そんな仕掛をこれから考えて行きたい。

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