「きんしょでん」にて

                       町田 雅之 
 
わが家からひと登りしたところに「きんしょでん」と称する森があり「琴松殿稲荷神社」がまつられている。漁業が盛んなこの町の漁師達の篤い信仰の対象として長く祭られ、折に触れ鳥居が建て替わると、そこへ奉納の文字書きの依頼が来ることになる。大抵の場合、4月10日の神社のお祭りを前にして鳥居を新しくするので文字を書くのはこの時期になることが多い。看板屋といえど近頃は筆を持って文字を書くなどは珍しいことになってしまったが、丸太を荒く削ってペンキを塗りたくっただけの鳥居には、最近の技術は対応できない。満開の桜、花曇りの日、久しぶりに文字を書きながらいろんなことを思い出した。
 今でこそ中学校がすぐ上に建ち、さほど広くはないまでも住宅地を控えてかなり頻繁に車の行き交う道路がすぐそばを通っているこの森も、私の小さいころはそれこそまれに自殺の場となるほどに鬱蒼とした森であった。昼間は学校から帰ると、いろんな木の実を探しに行くこともあったし、夜は蛍狩りがいつのまにか肝試しになるという、昔はよくあった典型的な森であったと思う。
 小学校に上がるか上がらぬかのころは、小さなカゴを抱いて森を抜けたところにあった山の上の農家にひとりで卵を買いに行っていたものだ。そのころは、わが家からほんのちょっと上っただけですぐに深い森であったような記憶がある。私がもう少しまともな子供であったなら、きっとトトロと出会っていたにちがいない。
 小学校も半ばになると、山のほぼいただきに新しく中学校が建てられることになり、工事のための道路がわが家の前を通り抜けて森を縫うように開かれた。そのころにはもう森としての畏れを抱く状態ではなくなっていたようだ。薄暗かった「きんしょでん」の参道は新しい道路によって切り通しにへばりつくように付け替えられ、首つりはおろか逢い引きさえも不可能な状態になってしまった。私が4年生の時校舎は完成し、当時中3の隣の兄ちゃん達が、それまでの校舎から1キロあまりの道を椅子や机をかついで運びあげていた行列にも遭遇した。彼らはその机椅子と新しい校舎で卒業間近の1か月たらずを過ごしたという。
 切り開かれた道路が舗装されたのはかなりあとになってからであった。グラウンドも山を開いただけの状態で、雨の日の登下校はまさしくぬかるみの中であった。これは私たちの入学の日もそうであったように思う。私たちの入学の直前に完成した体育館は、床はまだ荒木のままでザラザラとしており、今ならとてもではないが引き渡し以前の状態であった。通学路はほどなく舗装されたとはいえ、一梅雨はぬかるみ通学を経験したのではなかったか。もうあれから30年もたつのだ。
 そういえば、しばらく前、当時小1の息子はこの道を通って友達の家に遊びに行き、行きは友達といっしょだからよかったものの、帰りはその玄関先で別れたまま、あやうく迷子になるところであった。帰り道に迷ったと気付いたころ、運良く別の仲良しの友達と遭遇し、行きとは違う道で帰って来たのだ。道が相当に暗くなったころ私はこの道を通って息子を探しながら迎える覚悟で、本当に久しぶりに歩いて通っり、結果として行き違うことになったのだ。子供が少ないということは、近所という広さが迷子になるほどに広くなるということなのだなあ。
 祭りの日の直前というのに、日当たりの良い参道にはかなりの雑草が生い茂っている。命がけで海で働く男達や、その留守を守る女達が掃除に現れるのはいつなのだろうか。
 そんなことを考えながら書き終えて、脚立をたたむ手のひらにポツリと雨があたった。

生月自然の会会報「えんぶ」19号(96年7月発行)に掲載
 
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