ほんとうのゆたかさ (1)

                         町田 雅之 

 放送の世界にはフィラーというものがある。フィラーなどというと特別なもののようであるが、生の番組が早く終わったりしたときなどに軽く流す映像と音楽だけの、いわば文字どおりの「埋め草」である。先日、「九州の名列車」というフィラーをみた。
 青い「さくら」や赤い「みどり」に混じって、煙を吐きながら阿蘇を走るSL(蒸気機関車)が画面に現れると、私の心はたちどころに、昭和30年代の初めへタイムスリップしてしまった。たまによそいきを着せられた、まだ幼い私たち兄弟は両親に連れられ、蒸気機関車に引っ張られたすすけた客車に乗って佐世保市を訪れたものだった。
 朝は結構早く起こされたのではなかったか。木製の渡海船の焼き玉エンジンを始動する爆発音に驚かされたこともある。あの頃の船は通路から機関室が丸見えで、操舵室からの機関の回転を制御する指示が、チリチリンという音と共に針の回転する文字盤に届けられる様を眺めることができた。
 桟橋からしばらく歩くと鉄道の駅に着く。行き先によっては線路をまたいで向こうの乗り場まで歩かねばならない。巨大な生き物のような蒸気機関車のすぐそばを歩くというのは、子ども心にはたまらない恐怖だった。
 列車が平戸口駅を出発するとすぐに、あの長くてゆるやかに曲がったトンネルに入る。トンネルを教えたはずもないのだろうが、汽笛を合図に乗客たちは一斉に窓を閉めようとする。トンネルの中では煙はわずかのすき間を伝って容赦なく客室に入り込み、たちまち車内には独特のにおいが充満する。トンネルを抜けるとすぐに、これまたゆっくりとしたカーブを描く鉄橋の上を通過する。乗客たちは車内にただよう煙を一刻も早く薄めようと思いっきり窓を開けたものだった。
 当時北松地域にはいくつかの炭坑があり、石炭を運ぶケーブルが山々にはりめぐらされ、いくつものバケットが行き交う様は列車の窓からも見ることが出来た。鉄橋から見おろす川を流れる、洗炭に使われた水の色は見渡す限りこげ茶色だった。 もうひとつ炭坑を語るのに欠かせない風景がボタ山だ。真っ黒い巨大な三角錐はあちこちに築かれ、しばらく見ないとその大きさや場所までもが変化しているように感じられた。ときには自然発火の煙をたなびかせ、そしてごくまれに、ふもとの町やそこに暮らす人々を瞬時にのみこんだボタ山。
 ここからの私の記憶は、買ってもらったブリキのおもちゃを抱いて、帰りの列車を待つ当時かなり薄暗かった佐世保駅の待合い室へと飛躍する。
 今、北松の地からは炭坑が去り、山々はほぼ緑で覆われ、川の水は川の水らしく透き通り、ボタ山だった所には宅地が開かれてさえいる。当時炭坑があったことを示す遺構は次第に減り、主に石炭を運ぶ目的で敷設された鉄道のいくつかも姿を消した。それはこの地域からもはや運ぶべき人さえ減ったことを意味した。
 過疎化。エネルギーをめぐる産業構造の変化は、この地域のみならず、日本の様々な地域を翻弄した。炭坑が去った結果、生活保護世帯や窃盗犯の数だけが異常に増えた地域もあったと聞く。いつまた襲ってくるかわからない産業構造の変化を知ってか知らずか、海の向こうから運び込んだ石炭を燃やし続けている地域もある。化石資源の消費に依存する企業を誘致することが地域のステータスであったりしていいのだろうか。
 そのすぐそばには、地道な農業に精を出しながらかつてのボタ山の上をならし、地球は自分の所を中心にまわっている、といわんばかりに日本一のイナカを謳い上げる地域もある。どちらの生き方が本当に豊かといえるのだろうか。

生月自然の会会報「えんぶ」21号(96年11月発行)に掲載

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