「かわまつり」 

              町田 雅之
 
その他の地区のことをよく調べたわけでもないが、海や川や池や井戸といった水にまつわる年中行事として、平戸城下には地区ごとに「川祭り」と呼ばれる行事が伝承されている。木引田町には江戸時代からのしっかりした記録が残されていて、江戸時代半ばに、その体裁ができあがったようである。その体裁は、どの地区でも大きく変更されることなく伝承されている。
 今年も私たちの町では海と3つの水源の祭事を自治会の手で行った。祭事としての基本的な体裁に変化は無いものの、行事全体としては少なからず変化をしてきていることは否めない。いずれの水源も、今の私たちの暮らしにとって必要不可欠なものとはいえなくなってきていることが大きな理由だろう。
 古い地図を見ると、町内のいたるところに井戸がある。敷地に井戸があることは大切な事であったのだろう。私の家も20年ほど前までは、それほど広くもない敷地にふたつの井戸と池まであった。現在残るひとつの井戸は、ほぼ隣家の裏庭という、かなり無理な位置にあり、この地を購入した1950年代初め頃の水源に対するこだわりを感じさせてくれている。まわりの状況から見て、共同で使用されていたらしく、「井戸端会議」と言われていたように、あちこちの水源も同じように使われていたのに違いない。
 私たちの地区の「川祭り」は、祭壇に使う竹の切り出しから始まる。昔は竹の群生が隣接していたのだろうが、私がこの祭事に関われるようになった頃から、少しづつ遠くの方へ調達に出かけるようになった。
 祭壇の準備と並行して水源の清掃が行われる。井戸であれば、水を全部汲み出して井戸の側壁や底をきれいにする作業である。電動式の水中ポンプで汲み出しながら、高圧水で側壁と底を洗う様になったため、その作業はかなり楽になった。伝えられる清掃作業は、桶でひたすら汲み上げ、精進潔斎の後、真新しい晒の褌を締めた若者がたわしや荒縄で中を洗うというものであった。
 現在、私たちが共同で清掃作業を行う井戸はふたつ。ひとつは中国の様式といわれる県指定史跡の六角井戸。この掘削は中国人と平戸の町民の共同作業ではなかったかと想像を豊かにする。もうひとつの井戸の横には樹齢400年の大ソテツがある。さらに200段近い石段を登り詰めた神社の裏山にもう一つの水源があり、少し前まではサンショウウオさえ生息していた水源であるが、今はいずれも水源として利用することは皆無になってしまった。
 古い水源のまわりに何らかの偶像が祀られているのはよく見る風景である。水にまつわる子どもの事故死は今でも少なくない。飲料水源であったころには病原を媒介したこともあったであろう。渇水は今でも避けられない。直接には関わりのない水源の清掃という、一見無駄に見える作業を毎年繰り返すことに学ぶものは多い。日本の宗教が特に「たたり」と表裏の関係を持っているとはよくいわれていることであるが、私たちの地域に伝わる「かわまつり」も、そういった水にまつわる自然へのおそれを元とした民俗行事のひとつである。清掃の終わった井戸の横にしつらえた祭壇に供物を並べ、頭を垂れて神官の祝詞を聞きながら、水の質や、私たちの水に対する気持ちが変わってきていることに思いをめぐらせていた。
(木引田町葉玉氏が提供された資料と平戸市史編さん室の前田氏のご協力に深謝します。)

生月自然の会会報「えんぶ」25号(97年7月発行)に掲載
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