「ひとりたび」

                                                     町田 雅之
 
数年前の春のある日、仕事で立ち寄った離島の港で、一人の中卒らしい女の子を見送る風景を見る機会があった。どういう背景なのかはわからなかったが、見送る母親のあたりをはばからない涙に、見ているこちらも胸を熱くはしたものの、うかつにもその時点では、やがて自分にもその母親に近い状況が訪れるとは思ってもいなかった。
 我が家は父親が割合早く亡くなったせいもあって、私たち兄弟の人生の節目に親が付き添うということは珍しかったのだが、それが今になり、私の長女が長崎の高校を受験するというときも、一人旅をさせることになった。この長女、冬休みに東京の音大の講習会にこれまた一人で行ったものの、帰りに友人と会うために途中下車をして、そのあと乗る予定だった最終の夜行に乗り遅れてしまった、と新大阪から電話があった。
 「夜行」という言葉がまだ独特の響きを持っていた私の中学生の頃、「金の卵」という言葉があった。私たちブラスバンド部員は、毎年春には数日にわたり、彼ら「集団就職」の先輩を見送るために、楽器をかついで授業を抜け出し、桟橋で「蛍の光」を演奏したものだった。桟橋でテープを引き流しながら15歳の子供を見送る親の気持ちなど、当時の私たちには知る由もない。多分冒頭に触れた港の様に似た光景があったのだろうが、退屈であった「蛍の光」のリフレインだけしか記憶に残っていない。自分の子供が15歳にして親元を離れるということの重大さを思い知らされたのは、それから30年も経ってからだった。
 あの頃「ああ上野駅」という歌がはやった。著作権を尊重して歌詞の引用はしない。けれども、あの歌の持つあの時代の都会と地方との力関係は、おぼろげながらも思い出してもらえるだろう。それから15年ほどたって少し流行した歌に「木綿のハンカチーフ」がある。このあたりで都会と地方との間での価値観の問い直しが始まったのではないだろうか。「過疎化」という言葉を多く耳にするようになったのもこの頃である。
 「過疎地域」というのには1985年前後の人口の減少率や自治体の財政力をもとにした法律上の定義がある。これにより全国平均で3割、長崎県ではおよそ半分の自治体が「過疎地域」と指定されている。指定を受けると政府からおよそ10項目の特に財政的優遇を受けられるのだが、多くの自治体はそれだけに頼らず、居直ったり逆手に取ったりと、ありとあらゆる知恵を絞って「過疎」を克服しようとしている。いくつかの地域は「成功例」という言い方されている。しかし、現在「過疎地域」の指定を解く定義は無く、「出戻り」という言葉さえある中で、真の意味で「過疎からの脱却」を果たした自治体がどれほどあるのだろう。
 ただ「過疎地域」などと、ある時期の人口を元に定義すること自体にあまり意味があるとは思えない。この地域には石器時代から人が暮らしており、途中はさておき、現在のこの地域の人口は、明治時代半ばとほぼ等しいのである。ちなみに30年前にはこの「過疎」という単語は存在していない。「過密」という言葉はあったようなので、その反意語として、特に地域を表現する言葉としてつくられたのだろうが、その背景からして少なからず負のイメージを含んだ誕生であったようである。
 4年ほど前、森高千里という九州出身の--こういう形容が不要なくらい有名ではある--歌手が「この街」という自作の歌を歌った。方言の語りも入り、この街のここが好き、あれが好き、と地方の暮らしへの愛着を歌っていた。歌手自身の人気の割にはやらなかったこの歌はしかし、人々の気持ちの中での地方の価値が、間違いなく変わってきたことを裏付けていたのではないだろうか。
 一方わが子の一人旅、考えてみれば長男は生後3ヶ月で一人で旅立った。それを思えば17にもなった娘が夜行に乗り遅れることぐらいどれほどのことだろう。電話の向こうで突き放す親に対し、彼女は新幹線で岡山へ「夜行」の先回りするという手段を見つけ出した。これは30年前なら不可能なことだ。現代ではそれだけ選択の幅が広くなっている。少なくとも一人旅の子どもよりは能力のある地域が、自ら豊かさの本質に気付けば、それを実現する方法も数多く存在している。遅れを取り戻す方法が必ずしも新幹線だけのはずは無い。

生月自然の会会報「えんぶ」24号(97年5月発行)に掲載
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