平戸くんち

ほんとうのゆたかさ(2)

 くんち御神幸に随行中のよしゆき Oct. 1997
okudari  平戸には「平戸くんち」がある。毎年10月25・26・27日に行われる平戸城下の亀岡神社の祭礼である。この神社は平戸城内にあることからわかるように、平戸藩と密接な関わりをもち、明治の頃、霊椿山と七郎宮の二つの神社を合祀したものである。現在も旧藩内の神社の中心的存在である。域内それぞれの神社に年に一度のお祭りの日が定められ、亀岡神社の例大祭が「平戸くんち」と称される。「くんち」の呼称の由来は「宮日」であろうか、暮らしの中では盆と正月にならぶ存在であった。
 平成8年の「平戸くんち」では、25日の御神幸と26日の大大神楽が行われた。以前は27日の流鏑馬で締めくくられたのであるが、これは松浦市で行われているようである。
 御神幸は「おくだり」と称され、武者行列と旧平戸藩内の神職多数を従えて御神体をいただいたみこしが中心になる。みこしも数年前から台車を用いての御神幸となった。くれぐれもトラックの荷台などに乗っていただくなどということは避けてて欲しいものである。「おくだり」も出来なくなるほど若者がいなくなったこの町を想像したくもない。
 御神幸には今年も私の子ども二人が随行した。次女が榊、次男が賽銭を受ける小盆を持っての随行であった。私の小さい頃も随行したことはあるが、当時は子どもも多く、なかなかその順番がまわってこなかったと思う。大人になってからは武者装束で随行したことがある。正式の甲冑ではないので重くはなかったが、かなり動きづらいものであった。「防御」というのはかなり攻撃能力を犠牲にするものらしいとあらためて思ったことであった。
 神事としての行列の後には当番町の山車と踊りがつくのが従来のくんちであった。今年はかろうじて龍(じゃ)踊りがついたが、もう当番町という概念や山車が復活することはないのではないだろうか。8年毎にめぐってくるはずの「当番町」を、私が最後に経験して14年が経つ。そのときの高さ5メートルを越える山車の義経八艘飛びの飾りは博多山笠のリサイクルであった。3ヶ月もかけて奉納・庭先廻りの踊りの稽古をしたことが貴重な思い出である。
 26日は延々7時間に及ぶ大大神楽が奉納される。この地域の神職が一堂に会して大大神楽のすべてを舞う機会はこれだけしかない。「芸能人」とは神に芸を奉納する人のことだと聞いたことがあるが、これはまさしく当時の「芸」の極致を髣髴とさせる「舞い」である。
 普段の暮らしの豊かさというのは往々にして祭のときめきを相殺していく。「平戸くんち」ではもう参加する方も見る方も以前のような「ハレ」の意識ではなくなってきたようだ。こういう伝統行事のうちでも、神事としてのまつりがどこでも曲がり角を迎えているのだろう。それは同時に「まつり」が発生した頃には必要であった様々なものが、別のものにとって代わられつつあるということに他ならない。地域でひとつの共通の神をまつることによる共同体意識の維持、そしてそれは他でもない、人々が「共同」でなければ暮らしていけなかった時代が有ったということである。そして、普段の様々なストレスを昇華するには神事が数少ない手段であったのだろう。
 まる1日がかりでごちそうをつくり、学校も役所も半分は休んで、宴席に呼んだり呼ばれたりで町のあちこちには昼間からみやげを提げた泥酔のおんちゃんが介抱をうけている、そんな「普通」のくんちの風景はもう見られそうにない。もはや人々にとって「くんち」は必ずしも必要なものではなくなっていると言えるだろう。それと共に失くしつつあるものが間違いなくある。

生月自然の会会報「えんぶ」22号(97年1月発行)に掲載
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