延命町随想

                             町田 雅之 
昭和30年頃の延命町  
振り返ってみれば、生まれてこの方、私はこの通りから住所を移したことが一度もない。私の家の前の通りはなだらかな坂道で、江戸時代以前の地図には延命町と記されている。20年近く続くイベント、平戸延命茶市の名前の由来でもある。海外貿易当時のメインストリートであったと伝えられているが、私の小さい頃の砂岩の石畳が、まあつまり300年以上も前の石畳であったことには違いないようだ。専門家であれば当時の町並みや、通りの路面の様子なども頭の中にイメージできるのであろうが、正直な話し、石畳の通りというものが、当時どれほどの意味を持っていたのかはよくわからない。
 ずいぶん前の冊子で見かけたことがあって探していた1955年頃の延命町の写真を見つけてもらった。路面の6〜7割に石畳の残る写真であり、路面はそれほどに荒れかけていた。幅員の4分の1は側溝である。溝の側壁は石積みだから、小さい頃は糸の先に結わえたタクワンでカニを釣る、という遊びをすることが出来た。道路と家との境界そのものは変わっていないはずだから、この側溝が暗渠になる前の道路はその分狭かったことになる。通りに面した構造物は殆ど建て替わっていて、創業間もなかった私の父が建てた、通りに不似合いで当時にしては巨大な我が社の看板がなければ、写真に映る景色がこの通りであることを認知するのは困難だったかも知れない。その他には「婚礼着付」つまり「髪結い」の看板、この職業だった人は覚えているが、漢字ばかりのその看板を当時の私が読めたはずはない。もう一つ「廻轉焼」というのは全く記憶にない。写真の中には遠くに、歩き去る大人の女性の姿と、少し手前に犬と少年。そして8人の小学校低学年以下とおぼしき子どもたちの遊ぶ姿。今、この町で子どもを8人9人と集めるのは至難のワザだ。仮にいたとしても、このように昼間、うち揃って道 ばたにたむろするという場面はおそらく見かけることはできないだろう。写真の中に、当時の私が頭頂部だけを見せている、と母は言う。
 この景色が撮られておそらく3年も経たないうちに、この溝は暗渠となり、路面はアスファルトで舗装された。たいして広くもない道を通る車が次第に増え、我が家も自動車を購入することになる。
今の延命町  そのころこの坂道の中程に貸本屋ができた。1冊を1日借りて5円だか10円であった。殆どはマンガ雑誌であったが、毎日なんらかの本を借りては読みふけった覚えがある。当時「少年サンデー」が1冊およそ30円で買えたものの、そのころの小遣いは1日10円が相場であったから、雑誌の発売日に人より早く借るためにも近所であることは有利だった。月刊の少年誌もいくつかあり、当時は軍艦などを模した紙製の「豪華」組立付録など、ほぼ私の予約済みではなかっただろうか。プラモデルが発売される前の話しである。
 少し長じてからは、たまにはマンガでないものを、という親の配慮もあって、長めの読み物などを特別料金で借りたりもした。そういった年長者向けの本には「借りて読んでも知識は残る」などというキャッチコピーが書かれてあったのを思い出す。ソフトウェアレンタルという業種の移り変わりはある意味で興味深い。貸本屋のおばあちゃんはいつの頃か家族と共に引っ越して、中学校のそばでしばらくは貸本屋を続けていたようであったが、今は文字どおり隠居してしまわれたようである。現在の年齢を考えると、そんな年ではなかったはずだが、近所の当時からもおばあちゃんという印象だったのは、そういう時代だったということだろうか。
 1993年、この通り一帯は平戸市の「ロマンロード整備事業」により中国産の赤みがかった花崗岩をタイル状に敷き詰める工事を施され、現在に至っている。道路が単に移動のための空間でしかなかったひとつの時代の移り変わりを感じさせながら。
(おわり)
生月自然の会会報「えんぶ」23号(97年3月発行)に掲載
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